ほぼ一月程前から読みだした「寺田寅彦 随筆集」はまだ一巻の中ほどまでしか進んでおりません。文字が小さいと・・・などと言い訳がましいですけど。

その中「田園雑感」の三章 (大正10年(1921年))から引用させてもらいます。

 田舎の自然はたしかに美しい。空の色でも木の葉の色でも、都会で見るのとはまるでちがっている。そういう美しさも慣れると美しさを感じなくなるだろうという人もあるが、そうとは限らない。自然の美の奥行きはそう見すかされやすいものではない。長く見ていればいるほどいくらでも新しい美しさを発見することができるはずのものである。

~中略~

 六つになる親類の子供が去年の暮れから東京へ来ている。これに東京と国とどっちがいいかと聞いてみたら、おくにのほうがいいと言った。どうしてかと聞くと「お国の川にはエビがいるから」とと答えた。

 この子供のエビと言ったのは必ずしも動物学上のエビの事ではない。エビのいる清冽な小川の流れ、それに緑の影をひたす森や山、河畔に咲き乱れる草の花、そういうようなもの全体を引っくるめた田舎の自然を象徴するエビでなければならない。

~中略~

 私自身もこのエビのことを考えると、田舎が恋しくなる。しかしそれは現在の田舎ではなくて、過去の思い出の中にある田舎である。エビは今でもいるが「子供の私」はもうそこにはいないからである。

 しかしこの「子供の私」は今でも「おとなの私」の中のどこかに隠れている。そして意外な時に出て来て外界をのぞく事がある。たとえば郊外を歩いていて道ばたの名もない草の花を見る時や、あるいは遠くの杉の木のこずえの神秘的な色彩を見ている時に、わずかの瞬間だけではあるが、このえびの幻影を認める事ができる。それが消えたあとに残るものは淡い「時の悲しみ」である。

 

地域のことに興味をもってきた自分自身の気持ちと似ている気がしました。(センエツですが~。)ちなみに「笠舞の大清水」には、エビがいたことを覚えています。

自分さがし(?)をしているのかもしれません。この章を読んで思いました。

秋でもないのに感傷的な・・・・。