イザベラ・バードの旅『日本奥地紀行』を読む  宮本常一

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イザベラ・バードは、1878年(明治11年)6月~9月にかけて東北~北海道を旅し『日本奥地紀行』を著します。

その紀行文について宮本常一が講義する内容。

・・・イザベラ・バードという女の人が、初めて日本へ渡って来たのは四七歳だったと書かれています。そしてまず東北から北海道の南部、アイヌの住んでいる地帯を三ヵ月ほどかけて歩いて、その後何度も日本へやって来ているのです。(中略)

しかも最初に日本へ来た時には、日本についての予備知識は何も持っていなかったし、日本語も全然できなかったわけです。(中略)

イザベラ・バードの場合は、一八歳になる伊藤という男~まことにいかがわしい通訳~がついて旅をしている。

どこかずるいところがあるのですが、それでも二人が非常に充実した旅ができたというのは、やはり日本人の持つ人のよさみたいなものがあったのではないかと考えます。・・・(P.14)

 

外国人女性が行く先々で目にしたり体験するのは、明治時代とはいえ農村部は、藩政期と変わらない生活風景の数々・・・。

蚤(のみ)の大群が襲来したために、私は携帯用の寝台に退却しなければならなかった。粕壁(春日部)

そのくらい、当時の日本は至るところ、蚤がいるのは当たり前!。

ねぶた祭り(青森)は、夏になると蚤で眠られないので、その眠気・ねぶけ(=蚤)を流してしまうのが由来だとか。(災難除けにもつながる)

 

また、外国人(異人さん)が来る!ということで、行く先々で見物人が殺到しプライバシーの無さを嘆いています。

・・・プライバシーが殆んど問題でなかったてことが、逆にお互いが安心して安全な生活ができたということなのです。例えば女が一人で旅ができるということは、プライバシーをわれわれがそれほど尊ばなくてはならないようなことがなかったからではないか。われわれの生活を周囲から区切らなきゃならない時には、すでにわれわれ自身の生活が不安定になっていることを意味するのではないかと思うのです。(P.65)

大らかな時代だったのですねー。

 

・・・ずいぶんしどろもどろの旅をしながら、日本の旅というのはきわめて安全であった。

この旅の中で悪意を以ってこの人(イザベラ)を迎えた者はいなかった。われわれが一番垢抜けていないと思っている東北の地で、人々の間には連帯感と善意が満ちあふれていたことをふりかえってみますと、一体文化とは何だろうと考えさせられるのです。

 特に伊藤という通訳の青年の猛烈な勉強ぶりを、イザベラ・バードはいたるところで感心して書いているのですが、その後の日本の歴史のどこにも、伊藤のことは出てこない。ずいぶんいろんなことをしたのだろうと思うのですが、こういう人たちも一個の塵のように社会が飲み込んで巻き込んでいくほどに国全体の人たちが前向きに活動していた。つまり彼の勉強が周囲の人より群を抜くものであれば、どこかに残ったはずだが、残らなかったということは、彼の周囲にとにかく必死になって外国の文化を吸収しようとしていた人たちが当時の日本にはすごくたくさん出てきておったのだろうと思われます。(P.187~188)

 

蚤が多かったりと未開な面は当然あったが・・・、当時の日本と日本人は、諸外国から見ると稀有の存在だったのですねぇ。