一億三千万人のための「論語」教室  高橋源一郎

・・・これから始まる、この「論語」教室は、「超訳」でも、ぼくの創作でもありません。ある意味で、これ以上、厳密な翻訳はないんじゃないかと思っています。なにしろ、あんなに時間がたっても、センセイの「論語」はまったく古びていなかったんですから。
おせっかいなぼくは、キリストよりもずっと昔の時代に生きたセンセイのことばを、いまのみなさんに伝えるために、ほんの少しだけ現在風にアレンジし、ほんの少しだけ通訳としてお手伝いをしているだけです。
では、どうぞ、二千五百年前の白熱教室へ。・・・(はじめに~)

 

「論語」関連の本は何冊か読んだかも?でも・・・孔子の話?昔の訓話みたいなもの、というレベル。

「温故知新」「十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず」とか、知っているようなフレーズもありますが。

その「子曰く、故きを温ねて新しきを知れば、以て師と為るべし。」を本書では・・・「昔のことを研究するぐらい誰にだってできるんですよ。大切なのは、そうやって研究したことの中から、いまに役立つなにかを見つけてくることですね。そういう人じゃなくちゃ、先生なんかやっちゃいけませんよ」と翻訳。

「子曰く、人、遠き慮りなければ、必ず近き憂えあり。」

・・・「いまが良ければと目先のことばかり考える。そうなると、必ずしっぺ返しに遭います。断言してもいいですよ。このことは、政治にとってもっとも大切なことといってもかまいません。いま金がないから緊縮する、その結果、将来の世代がひどい目に遭う。いま、働く世代がたくさんいるからその金を使ってじゃんじゃん軍備を増強する、でも半世紀後、高齢化社会を迎えたら、働く世代がいなくなって年金制度が崩壊する。いくらでも例をあげることができるでしょう。でも、政治家も有権者も役人も、みんな「目の前」のことさえよければ、自分だけなんとかなれば、と思って行動してしまうのです。残念ですがね」・・・と本文より長い翻訳となります。

著者の思想もチョッと加味?~これは、致し方ないか。

紀元前200年頃には存在していた「論語」。

当時の日本は弥生時代後期か古墳時代~。

悠久の時の流れのなかで読み継がれている「論語」。

通読しなくてもバラ読みでもいいですね。

 

 

「論語」読みの「論語」知らず~とならないように、「一億三千万人のための『論語』教室」へ・・・。