「一神教と国家」イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 内田樹/中田考 を読みました。

 

イスラーム、キリスト教、ユダヤ教の一神教はいずれも同じ中東の砂漠で、同じ唯一絶対の神を戴いて成立した兄弟のような宗教です。(P72)

キリスト教はどちらかと言うと「汚れない魂」を信仰の基盤としているし、ユダヤ教は信仰の完成のために知性的な成熟を要求する。イスラームはその両方に目配りしている。(P76)

なるほど~最初にあった神の声(預言)は同じで、それぞれ勝手(?)に解釈したのか。

キリスト教は、イエスを神の子と認めるものが救済され、ユダヤ教は預言を解釈した教えが、イスラームはムハンマドを通した預言が信仰対象になった。

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本書を読んでいると、過酷な自然環境の中で生まれた思想の中で、毎日の礼拝やラマダン(断食月)等の規律はあるものの、イスラームがもっとも柔軟で理にかなった思想なのではないか?と思えてきます。

 

「目には目を、歯には歯を」というのは単なる復讐法ではなく、イスラームの場合はあくまでも許すのがいちばんいい。

これは『クルアーン(コーラン)』にはっきり書かれていて、人の罪を許すと自分の罪の償いになるので、許すのがいちばんいい。けれどもそれができない場合には、同じことをやり返してもいい。しかし自分がされた以上の過剰な復讐は決して行ってはならない。

ちなみにユダヤ教では、目を潰されたら目を潰さないといけません。これは義務です。厳しいのです。

キリスト教の場合は「汝の敵を許せ」で許さないといけません。これも別の意味で厳しい。

イスラームは許すのがいちばんいい。でも同じことをやり返してもいい。二段構えになっているのです。(P46~P47)

 

モノがあったら分かち与える、喜捨~施しの文化が発達している。

砂漠の生活は、お互いに助け合わないと生きていけなかった。

 

ところが現代では、近代に入ってから線引きされた国境によって民族が分断されたうえに資本主義経済下に無理やり?置かれたが故に、政情不安の温床になってしまった。

イスラーム=悪のイメージは、グローバルスタンダードを推し進める流れの中で作られたのかもしれない。

 

カリフ(イスラーム国家・共同体の指導者)を中心としたイスラームの経済共同体を提案する本書の内容は、資本主義の次の世界かも。