金次郎像
昨日の記事に書いた二宮金次郎像について、某所で会話しました。
「偶像崇拝ってみられて、だんだん置かなくなってきているみたいやね。」
「宗教の対象じゃないんだけどな~。」
「前時代的なんかな。」
「でも、報徳訓はいいことゆうとるぞ。」
「だから、オッサン扱いされるがや。」
~Wikipediaの二宮尊徳からの抜粋~
各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿に関する記述は、1881年発行の『報徳記』で現れる。ただし、薪を拾って売り、その金で勉学をしたのは事実だが、このような姿で実際に歩いていたという事実はないとされる。報徳記を基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』(1891年)の挿絵で、はじめて薪を背負って歩く姿の挿絵が使われた。1904年以降、国定教科書に修身の象徴として尊徳が取り上げられるようになった。
これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金次郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金次郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われており、特に平田東助・岡田良平・一木喜徳郎らによる指導が大きかった。
小学校の校庭などに見られる「金次郎像」は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって広まったとされる。
昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが1mとされ、子供たちに1mの長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり1mではないことが多い。
像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、1970年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある。
このように新設の学校には無い場合が多いのですね。
「修身」って言葉でカン違いされているかも。(思想的に)
修身=①自分の行いについて、悪を改め善に進むよう身を修め、整えること。②旧制の学校の教科目。国民道徳の実践、徳性の涵養(かんよう:自然に染み込むように徐々に養い育てること)を目的としたもの。第二次大戦後は廃止。(広辞苑)
身が引き締まるようで、いい言葉だと思いますが・・・。