名作うしろ(ななめ?)読み
「名作うしろ読み」 斎藤美奈子
北陸中日新聞「本音のコラム」を執筆され、面白い視点で物事を見る方だな~、ということで名前だけは知っていました。
<国境の長いトンネルを抜けると雪国であった>(川端康成 『雪国』)
<木曽路はすべて山の中である>(島崎藤村 『夜明け前』)
本は読んでいなくても、なぜかみんな知っている名作文学の書き出し、すなわち「頭」の部分である。
では同じ作品のラストの一文、すなわち「お尻」はご存じだろうか。
ご存じない?ですよね。
だったら調べてみようじゃないの。それが本書のコンセプトである。・・・
・・・「ラストがわかちゃったら、読む楽しみが減る」 「主人公が結末でどうなるかなんて、読む前から知りたくない」・・・
しかし、あえていいたい。それがなんぼのもんじゃい、と。
お尻がわかったくらいで興味が半減する本など、最初からたいした価値はないのである。
っていうか、そもそも、お尻を知らない「未読の人」「非読の人」に必要以上に遠慮するのは批評の自殺行為。
読書が消費に、評論が宣伝に成り下がった証拠だろう。・・・
・・・やや強引に定義し直せば、人々がある程度内容を共有している作品、「お尻」を出しても問題のない作品が「古典」であり「名作」なのだ。
未読の人にはこのようにいってさしあげたい。
「つべこべ文句をいっていないで、読もうよ本を」
これだけは保証しよう。
本の話は「既読の人」同士でしたほうが絶対におもしろいのである。 (はじめに~一部略)
と、最初から挑発的というか、読書することをアジっています。
著者は掲載の名作132作を全部読んでいるのですね~。
その中の10作ほどは辛うじて既読だったが・・・。
読んでみたくなった作品もいくつかありました
未読の名作は数多あり、そしてその数は年々増えていくでしょう。
各種文学賞を受賞した作品はモチロン「名作」になるし、その他でも読んでみて心に残る作品も「自分の名作」。
谷崎潤一郎 『細雪』の「頭」
「こいさん、頼むわ。―」鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛(ハケ)を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢(ジュバン)姿の、抜き衣紋(エモン)の顔を他人の顔のように見据えながら・・・。
『細雪』の 「お尻」
下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってもからもまだ続いていた。
衝撃的?なラスト。
読んでみたくなりました。