「右翼」の戦後史
「右翼」の戦後史 安田浩一
「沖縄の新聞は本当に『偏向』しているのか」と同著者です。
本書のカバーデザインからして、なかなか手にしヅライ中身かも~と思ったが・・・。
・・・プロレタリアートの前衛たる左翼に対して、右翼を「民族の触角」と表現したのは民族派の重鎮として知られた野村秋介だった。
時代への感受性と、危機に直面した際の順応性を、野村は火事場の半鐘に喩えた。
尻込みしない。素早く駆け付ける。人々の命を守るために自らが盾となる。必要とあらば、そのための暴力でさえ肯定した。人々の素朴な心情に寄り添うのが右翼だと説いた。
「弱いものが強いものに抗するための暴力が必要な時はある。だが、一般の人に体を張れということはできない。そのために民族運動家がある」
それが野村の持論だった。実際、野村は大資本には容赦なく戦いを挑んだが、在日コリアンなどマイノリティに対する差別は許さなかった。
日本の右翼には右翼としての”正史”がある。欧米列強に立ち向かい、財閥の腐敗に憤り、農村の疲弊に涙した。まさに民族の触角として危機を感受し続けてきた。
さらに、右翼には右翼としての秩序もある。自由、平等の理想を掲げる左翼とは違い、国家への忠誠が優先される。日本の場合、そこに絶対不可侵の天皇という存在が加わる。
急激な変化を望まず、国家と民族の威厳を保ち、歴史の風雪に耐えた伝統と慣習を守り、国内の安寧維持に尽力する。右翼は極めて濃度の高い「日本」であろうとした。・・・(はじめに)
コワオモテの方々が街宣車で大音量を流し徒党を組むのが「右翼」だと思っていました。
ただ、騒いでいるだけだと・・・。
本書で「右翼」への見方が変わりました。
この「右翼」を肯定するものではありせんが、思想としては至極真っ当であるということが分かった。
「右翼」と、ネトウヨとは異質のものだったが、徐々にその差が無くなってきている・・・ことへの著者の危機感が語られます。
街宣車に乗り活動する「制服を着た右翼」から、サラリーマン風の「背広を着た右翼」へ。
さらには、より一般的になってカジュアル?な、ネトウヨが現在の主流のようです。
客観的に見たら、政治家も市民も~世間全体が右傾化してしまっている?。
へぇーよく聞くあの団体もそうだったんだ!。
知らないうちに一人一人が、ネトウヨやヘイトスピーチに感化されている?。
悪者を見つけて攻撃することで、心の平静を保っている?。
読みやすく、とても中立的で冷静に書かれた内容でした。
我々も「触角」を持たないといけないのかもしれない。
・・・国家という存在は強権を持ちえたとき、左右の区別なく気に入らないものを排除していくという歴史の教訓を知らないのだ。・・・(P.32)