流罪の日本史
「流罪の日本史」 渡邊大門
・・・「ちくしょー、島流しだ」今でも企業などでは、人事異動の際にこうした言葉が聞かれるはずだ。この場合の島流しとは、文字どおり東京本社から地方の支店に配属されるような例に限らず、多様な意味を含んでいる。たとえば、同じ東京本社であっても、花形部署から暇な部署に追いやられることも意味しよう。
(中略)
およそ島流しになるのは、社長や上司が交代したときの人事異動、あるいは社長や上司と部下の折り合いが悪くなったことが想起される。社長や上司は、自分の意に沿わない部下を島流しにすることにより自らの権力を誇示しようとするのだろう。・・・(はじめに)
日本では5世紀ごろから流罪があったらしい。
死罪の次に重い罪であり、ときの政権に反発した政治家、文化人、宗教家などに適用された。
古い時代ほど、「島」でなくても交通の便が悪い辺境の地は、食べ物にも事欠く、物さびしい未開の場所で、華やかな「都」とは比べようがなく、流罪となった人々は再起する気力を削がれた・・・ようです。
流罪先や向かう途中で盗賊に遭ったり事故や故意?に亡くなることも・・・。
関ヶ原合戦後に、九度山(和歌山県)に流された真田昌幸・信繁父子は、ドラマや映画では虎視眈々と再起を図ったように描かれるが、実際はそれどころでは無かったような・・・後世の創作軍記のようです。
明治41年に現行の刑法が施行され流罪は無くなります。
交通手段の発展とともに流罪の意味は変わっていった。
外部や人との交流を断つことが「流罪」であるならば、コロナ禍の現在は緩やかな「流罪」なのかもしれない・・・。
反省・・・ン?何か悪いことした?。