一億三千万人のための『歎異抄』
一億三千万人のための『歎異抄』 高橋源一郎
・・・今まで誰も読んだことがない みずみずしい「ぼくたちのことば」になった『歎異抄』 それは親鸞の『君たちはどう生きるか』だった。・・・(本書カバー)
「歎異抄」関連本は何冊か読んだことはあるものの、よくわからない・・・その「歎異抄」を「ぼくたちのことば」で著したのが本書です。
・・・現実の世界ではひとりしかいない「親鸞」も、ひとたびことばの世界の住人になったとき、それを読む人のたちの数だけ存在するのである。・・・(『歎異抄』を読む前に)
~ということで、他の「親鸞」たちと区別するために本書では「タンニショウ」「シンラン」「ユイエン」「ホウネン」・・・が語られるのでした。
読みやすく少しは理解できた?ような気がしますが、その辺りは読み手に委ねられる・・・。
「シンラン」が生きた当時は、天災・戦乱や飢饉が続いた本当に厳しい混乱の時代・・・そこで翻弄されるのは、文字もわからない「ふつうの人」がほとんど。
現代の「タンニショウ」「タカハシ」さんは、どのように読まれるのか?。
読み手の一人として自分理解がチョットは進んだかも知れないけど・・・。
「ナムアミダブツ」・・・まずはネンブツをとなえるのだ。ネンブツが先なのだ。まずことばがあるのだ。そのことばをとなえつづけるのだ。意味などわからなくてもなわない。ただもう熱中して、ただもう無になって、よく知らないけど、ありがたいらしいそのことばを口にするのだ。ほんとうにそれだけでいいのだ。そして、そのとき、そのときにだけ、その先にだけ、人間にとってほんとうに必要なにかが生まれるのだ。・・・(P.163~164)